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2009/10/29 フランクフルトに戻りいよいよドイツ出国 [旅程]

8:30 ホテルロビーはワイヤレスLAN回線があるので、朝食後にここで仕事をする(部屋にはLANケーブルがつながらない)。受付の女性にフランクフルトまでの行き方を確認してもらう(バスか列車で時間的に都合の良い方にしようと思っている)。バスは乗り換えもないし楽なのだが、出発時刻が早く、空港にかなり早く着いてしまうようだ。やはり列車好きとしてはTGVに乗らない訳には行かないだろうと、列車で向かうことを決意する。
10:30 荷物をまとめて、check outする。
ストラスブール宿泊ホテル.jpg
ホテル周辺は緑が多いのだが朝方は霧がかかっている。ホテルからトラムの駅まで、まだ霧の残る中、トランクを押しながらとぼとぼと歩いていく。気温はさほど低くない。
11:00 街中をうろついている。気が付くと再び大聖堂付近にいた。この辺りは路面が石畳のため、トランクの車輪の音がガタガタとウルサイ。前回は夕方から夜にかけての風景だったが、今日は昼間の姿を見ておこうと思った。やはり威厳があってなかなかの迫力だった。暫く、大聖堂前の広場でのんびり時間を過ごしていた。
大聖堂前の広場にて.jpg
13:00 中央駅にやってきた。TGVの乗り継ぎを調べてもらう。カールスルーエで20分程度待つくらいなので比較的良い方だ。窓口でチケットを購入し暫く待合室で待っていた。フランス鉄道(SNCF)の自動販売機はドイツ鉄道(DB)とは色は異なるがだいたい内容は同じだった。
フランス鉄道自動券売機.jpg
乗車予定のTGVの発車番線がまだ決まっていないのだ。どういうことなのだろうか?他の列車の状況によって変わることもあるのかも知れない。
13:20 待合室で一人で待っていると、くたびれた感じの中年おじさんが(人は良さそう)寄ってきた。ルーマニアのブカレストまで列車で行きたいようで、紙に何ヵ所かの地名が記されていた。ミュンヘンとも書いてあったので、そこをまずは目指したいらしい(英語も良く解らない)。取り敢えず、私と同じTGVに乗れば終点シュトットガルトまでは辿り着くので、それに乗れば良いだろうと答えてあげる。どうも喉が渇いているようで、私の飲みかけのミネラルウォーター(ガス入り)を指さして、くれないか?みたいに頼んでくるから差し上げた。ふつう赤の他人が飲んだペットボトルはあまり飲みたくないものだけど・・。
13:45 到着10分前になりようやく到着番線が決まり、急いで目的のレーンに向かう。いつもこんな感じなのだろうか?何とも混乱しそうである。するとパリから颯爽とTGVがやってきた。降りるのも乗るのもかなり人が多い。ゆっくり列車の旅を楽しむ雰囲気ではなくなってしまった。何とか座ることはできてホッとする。
カラフルな色彩のTGV.jpg
14:00 ドイツ国境近辺ではスピードがかなりゆっくりとなったが、ドイツ国内に入ってからは快調に飛ばしていた。列車内にはフランスSNCFとドイツDBの従業員が一緒に働いていた(途中で入れ替わったが)。また前の席から、ゲナオ(確かに)と聞き慣れたドイツ語が聞こえてくる。日本語ほどではないが何となく安心する。ストラスブールでは、ボンジュール、ボンソワール、メルスィーの他には、オルヴォワール(Good-bye)、サヴァ(OK)、シィルヴプレ(Please)、トレビヤン(Fine)くらいの単語だけで何とか切り抜けられた。
14:25 あっという間にカールスルーエ駅に到着した。この駅も何度も乗り換えで利用させてもらっている(街には出ていないが)。ICE(特急)が停まる駅だけに奥行きが長い。
14::51 フランクフルト方面行きICEが発車する。こちらはそれ程込んでいなかった。表示も言葉も完全にドイツ語に戻っている。2ヵ月しかいなかった訳だが、ストラスブールに着いた時の感覚に比べれば、かなり戻ってきた感がある。
15:51 フランクフルト中央駅に到着した。駅が近づくにつれ高層ビル群が見えてくる。ここはドイツ一のメトロポリタンである。人口はベルリンの方がはるかに多いが、街の近代化はこちらの方が進んでいるようだ。ここは8月の下旬、日本からドイツに始めて辿り着いた土地である。あの頃は本当に右も左も解らなかった。買い方が解らず悩んでいたSバーンの自動券売機があって懐かしく眺める。重いトランクをゴロゴロさせる姿は変わらないが、歩き方には若干余裕があるかも知れない。では空港駅を目指すことにする。
フランクフルト中央駅.jpg
16:30 飛行機出発の3時間近く前に着いてしまった。本当はフランクフルト市内を少しだけでも観光しようかと思っていたが、またの機会に取っておくことにした。ここは空の玄関口なので日本から来る時はたいがいここを利用することになるだろうから。
17:00 check inも済ませたのでゆっくりしようと場所を探すと、Zuerichという生命保険会社がヘルプポイントという無料のスペースを提供してくれており、そこでインターネットができるので利用させてもらった。目立つし便利なので良い宣伝になっているようだ。
フランクフルト空港ヘルプポイント.jpg
18:20 本屋や土産物屋を見て回ったが、あれこれ考えていると結局今回は買えなくなってしまった。。。そろそろ手持無沙汰となり、搭乗口に向かいパスポートコントロールを受ける。Security checkは結構厳重になされた。
19:00 Air China(中国にはChina Airlineと言うのもあるので紛らわしい)のカウンターを目指す。やはり多くの乗客が中国人である。西洋人には日本人と見分けがつかないようだが、明らかに雰囲気が異なる。どこが違うのだろうか?と観察してみると、目の感じと髪型、ファッションであることが解った。当然喋れば解るけれども。自分はこの集団の中では違って見られているだろうか?(髪は現在伸び放題・・)
19:20 いよいよドイツを離れることになった。色々な思いが駆け巡ってくる。2ヶ月間はやはり慣れるには短すぎる期間であったが、若干日本が恋しくなってきていた時期でもあり、ちょうど良かったのかも知れない。病気や怪我もせず大過なく過ごせたことが一番良かった。今回の留学に関し、大学の関係者の方々には、いろいろと自由にさせてもらいとても感謝しております。この場を借りてお礼申し上げます。また時に励ましのご連絡を頂いたり、心強くもあったものです。この短期留学で得られたことは僅かかも知れませんが、自分の苦労した体験などが、今後同じような経験を積んでいかれる方々の参考に少しでもなればと思っております。最後に一人日本に残してきた妻には毎日支えてもらいました。いつか一緒にまた行きたいものです。有難うございました。
夕日に旅立つ飛行機.jpg

2009/10/28 OTC Cadaveric Hand&Wrist course 2日目 [平日]

8:10 セミナー会場のIRCADに到着。コーヒーや軽食が置いてあるので自由に頂ける。
ロビーのカフェテリア.jpg
8:30 手術室に移動する。ここではディスポの手術着に着替える。今日は一日中この恰好で過ごすことになった。手術室には上腕からのcadaverが15-6体置いてある。だいたい2人一組でこれを用いて実習が行われる。Tuebingenのanatomyで行われたコースもそうだったが、まず講師がdemonstrationをして(直接見にも行けるが、各テーブルには比較的大きなモニターが付いているのでそこでも見ることができる)から、実習にうつる。
9:00 まず始めに橈骨遠位端骨折の骨接合が始めた。コンビはリトアニアのSmikus君とだ。デジカメを向けると笑顔で手を振ってくれた。
手を振るSmikus君.jpg実習室風景.jpg
デモでは方形回内筋は温存することもあるが、通常は橈側縁でcutすると言っていた(plate固定後は縫合しないという先生やshoe race sutureのようにして締めあげて縫合するという先生など様々)。Smikus君が展開したいということで助手をする。彼はdemoの先生の言う通り忠実に、腕橈骨筋の付着部もしっかり剥離していた(この操作が後で厄介なことになってしまうのだが・・)。骨折は自分でつくることになる。まずは関節外単純(A2)を作成してplate固定を行い、更に関節内単純(C1)として、再度plate固定を行う。使用plateはS社のVariaxである(polyaxialのlocking plate)。デモの説明でもwatershed lineについて強調していた。このcadaverの橈骨掌側面の関節面からの立ち上がりの角度が結構急峻であるため、plateの形態と若干合わなかった(関節面に近い適切な位置に設置しようとすると若干plateが浮いてしまう)。しかしpolyaxialなので遠位locking screwの刺入方向を工夫すれば何とかなる。
10:20 次にNon-bridging創外固定のデモが行われていた。しかし参加者の中では興味がないのか見ていない者もいる。勝手に自分らで色々と試してしまっているグループもある。この先生は背側から創外固定pinをsubchondral supportするのが大事だと言っていた。
実習デモ風景.jpg
10:50 Coffee breakとなる。手術室は3Fでロビーは0Fなので移動する。真面目なグループはそのまま続けていたが、殆どは休憩に入っていた。
11:20 次はGupta先生が、posterior interosseus flapのデモをしてくれた。このcadaverには血管に樹脂が注入されている(テュービンゲンの時は赤色だっだが、こちらは緑色だった)。血管の同定が容易である。血液が流れていないとflapの挙上は難しいので、これはデモを見るだけの感じになっていた(後で休憩時間に一人でやってみたが、やはり難しかった)。その後、DRUJの不安定性に対するBrachioradialis wrapについての説明があった。橈骨神経浅枝に注意して、Brachioradialisを付着部から展開し(ここで先ほどSmikus君が橈骨遠位端骨折の整復の時に剥離し過ぎて付着部が剥がれてしまっているのが解りショック!)、別皮切で筋腱移行部を展開してcutし、遠位側に引き出すという手技である。その後、ECUとFCUの間から尺骨を展開し骨膜下に剥離、cutしたbrachioradialis tendonを方形回内筋の下(橈骨に接して)を通し、尺側に出す。DRUJのやや近位で尺骨をwrapするように今度は背側からEDCなど伸筋腱群の下(橈骨に接して)を通し橈側に出す。最後は橈側でbrachioradialis付着部と尺側に回した腱断端を縫合して終了。どの程度の緊張度にするかは難しいが、使っているうちに結構緩むそうなので少しきつめが良いのかも知れない。また、腕橈骨筋力が落ちそうだが、muscle成分は残っているのでそこまでは気にならないと言っていたが果たしてどうだろう?
腕橈骨筋wrap.jpg
12:40 Lunch timeとなった。昨日もそうだが、テーブルにはまずオードブルのようなものが既に置いてあり、残りは(温かいもの)それを食べ終わってから取りに行くというスタイルになっている。さすがはコース料理の本場フランスだけはある。味もなかなかよろしかった。
プチコースのランチ.jpg
今日は昨日からの2人(リトアニア・デンマーク)に加え、親日家のLiverneaux教授が座ってきてくれた。先生は今Robotic surgeryに力を入れておられ、熱くその将来について語ってくれていた。現在でも技術的には遠隔手術(例えば東京で操作して福岡で手術を受けるなど)は可能だということだが、情報送信費用がかなりかかってしまうそうだ。しかし、これらの問題も数年後には解決するだろうと自分のiPhoneを見せながら(5年前にはこんな便利なものはなかったと)説明してくれた。日本でも先進医療として認められれば大病院を中心に普及していくに違いない(もう実際に導入している所もあるようだが)。
13:30 午後は中手骨骨折や矯正回転骨切りなどについてのデモがなされる。S社のハンド用plate setには矯正骨切り用のplateも入っている。このplateを用いれば比較的簡単に±20°までの回旋変形を矯正できる。他には第5中手骨頚部骨折に対しての側方アプローチによるplate固定の説明があった。これには議論もあり、頚部であればK-wireの髄内釘でも成績に差がないという意見もあった。保存的にも治療できるケースも当然ながらある訳で、一つの治療方法に固執することなく、case by caseで考えることも重要なのだろうと思わされた。
14:30 デモではkite flapやvascularised bone graftが説明された。しかし、残念ながら参加者のCadaverには樹脂が注入されていないので、flapの挙上は難しい。あまり試しているグループはなく、骨接合などの方を主にしているようだった。Smikus君もsoft tissueを扱うよりORIFの方が好きだと言っていた(image checkはcadavarの上肢を持ち歩いてimageの所まで持っていき確認する。誰もプロテクターは付けておらず、被曝を気にしてる様子はなかった。ロシア人は被曝には敏感だと思っていたのだが・・)。
image checkに並ぶ参加者.jpg
15:00 Kite flapやmetacarpal flapを一人でやっていると、ここストラスブール大学の若い先生(おそらく片付けなどの手伝いできている)が一緒についてくれた。私と同様、あまりそこまで詳しくはなさそうだったが、一緒にあれこれ考えながらtryしてみた。結構楽しかった。
15:30 もう既にだいたいの参加者はcoffee breakに入っていた。実習は終了のようだ。片付けの人達がまだかな?という感じで見に来るのでそろそろ諦めることにした。
15:40 最後に講義室で講義が幾つかあった。最後と言うこともあり、若干気が緩んだのか少し眠たくなったが、何とか気力を振り絞り頑張った。
16:20 最後のコースのアンケートの記入があり、それを提出すると証明書が授与される。飛行機の関係で早めに帰る人もあり、少し早めに終了となった。私は今日も宿泊なのでゆっくりしていたが。
大学病院のクリニック棟.jpg
17:00 ホテルまでのバスが出るということだったので、大学病院周囲を散策しながらぶらぶらして戻って待っていても、バスがいくらたってもやって来ない。自分を含めて計5人待っていたのだが、15分過ぎても来ないので、おかしいと思い聞きに行くと、参加者がいないようなので今日のバスは来ないことになりましたと。。。。え~聞いてないしと、ちょっとムカッとしたが、仕方なくタクシーを2台呼んでみんなで帰ることになった。最後はとんだハプニングがあった。タクシーは一人クウェートからやってきた年配の先生と一緒になった。エジプト出身とのこと。湾岸諸国はインド人も多いが、エジプト人も結構多いのだと言っていた。やはりオイルマネーで潤っているようで税金はないそうである。

2009/10/27 OTC Cadaveric Hand&Wrist course 1日目 [平日]

8:40 OTC(Osteosynthesis & Trauma Care Foundation)主催のCadaveric course : hand and distal radius ; Strasbourgに参加する。始めにイントロダクションということで日本でも有名なTaglang教授が挨拶してから開始となった。続けてCourse outlineをベルギーのStockmans教授(今回のcourse director)がされる。まだ若く聡明な印象。以前ルイビルに留学していたことがあるそうで英語の発音が良い。本日は講義中心で明日がcadaverを用いた実習になる。この施設(IRCAD)の紹介もなされたが、ここではCadeverを用いた様々なトレーニング(腹腔鏡、関節鏡など)が行われている。昨年台湾にも同様な施設が建設された。日本でこのようなコースは基本的に開催できないだけに羨ましい。
IRCD外観.jpgIRCD建物.jpgコースディレクターの説明.jpg
9:00 午前中前半のセッションは橈骨遠位端骨折についての講義だった。レントゲンの正しい撮影方法(手関節正面での尺骨遠位端のECU grooveの見え方など)からscapholunate instabilityの診断方法など画像診断から始まる。
9:20 続いて橈骨遠位端骨折の分類についての講義では、数多くの分類を解説してくれた。Abraham Collesの文献の引用から始まり、当時は保存的治療が中心で外観は悪いが機能的に大きな問題がなかったこと(論文発表当時(1830)の平均寿命は35-6歳だったとのこと)とか、多くの分類があるが再現性に乏しいこと、治療に直結している分類が少ないことなどを述べておられた。世界中で最も汎用されているのはAO分類だが、講師の先生(Stockmans教授)は、Fernandezの分類を愛用しているとのこと。この分類は受傷メカニズムによって分類され、それぞれのコテゴリーによって治療指針が決まるため、臨床的には有用だそうだ。しかしstudyでまとめる際には煩雑だと言っていた。
9:40 USAルイビルのGupta先生(インド系?)の講義では、知識の整理をさせてもらった。主に橈骨遠位端骨折の治療の変遷について文献的考察を中心に述べておられ解りやすかった。特にScott’s Parabolaという図を用いて橈骨遠位端骨折の手術の変遷を説明しておられたのが印象に残った。掌側ロッキングプレートが考案され、論文となり、それを支持する報告が増え、一気に普及していった経緯、今後は合併症などの報告も増え、反省期に入っていくという感じ。ダメなプロダクツであれば、これから一気に廃れていくのかも知れないが、このプレートは暫く生き延びていくだろう。
10:30 各講義の後に質問・討論時間があるのだが、ロシアからの参加者集団が幅を利かせていて(10人以上参加して最大勢力)、毎回質問する大柄の男性もいる。机の前にはvoting systemとマイクが備え付けられているので、マイクをオンにすれば自由に質問できるし、演者が時々聴衆の意見を求めるのだが、その時に番号を押せば、それがすぐ結果のグラフとなって反映される。今後大学の講義などでも取り入れられていくことだろうと思われる。
熱心に聞き入る参加者たち.jpg
11:00 質問などで長引き時間が押してしまっていたが、ようやく休憩になった。休憩時間は縮めずに充分に取るところは日本とは違うなと思う。いつものように軽食やジュース・コーヒーなどが振る舞われる。日本人は自分だけなのでまずは周りの動向を伺って見る。
11:20 次は、橈骨遠位端骨折の治療に対してそれぞれの得意分野の先生方がまず講義をし、それから討論していくという感じ。Kapandji pinningを愛用しておられるフランスの先生は、この方法が好きな理由にKapandji先生が好きだからと言っておられ、参加者の笑いを誘っていた。いい方法だけど残念ながらused technicqueになったと言っていたのが印象的だった。この点に関してはO茂先生の論文がevidenceになっていることは間違いない。次に創外固定を愛用している先生は、今でも使用しているということで熱く語っていた。現時点ではひいき目に見ても適応は限られており、勝ち目は少ないような気がするが。最後に掌側ロッキングプレートについてであったが、私も論文作成のために関わった分野でもあるので大方の内容は理解できている。方形回内筋の処置、尺骨茎状突起骨折の処置については殆ど言及されていないのが個人的には寂しい感じがした。
13:00 全体的に遅れ気味でようやく昼食となる。ロビーはちょっとしたカフェレスト風になっており、そこで参加者・facalty一緒に食べる。食事をもらう列で待っていると、日本語で話しかけてくれる先生がいてびっくりする(アナタハ日本人デスカ?)。ここストラスブール大学のhand unitの教授であるPhilippe Liverneaux先生だった。以前、日本で研修をしたこともあり、親日家のようである。多くの日本のhandsurgeonの名前を知っていた。京都が大好きとのことであった。これが日本風だと言ってお互いお辞儀しながら名刺交換をした(この光景は欧米人には可笑しく映るらしい)。食事は、独りで寂しげに食べている身長185cmくらいあるリトアニアから1人でやってきたSmikus先生(32歳と言っていた)と一緒にした。気の弱そうな感じが親近感を覚え近づいてみた。暫く挨拶なんかをしていると、デンマークから来たRasmussen先生と言うちょっと年配の先生も座って来た。1人でやって来た人は似た者同士で集まる傾向にあるのだろう。このおじさんは、娘が日本の漫画や映画が大好きなので一緒に良く見るとか言っていた(宮崎駿監督作品がお気に入りとのこと)。この2人とは折をみてセミナー中は一緒に過ごすことが多くなった。
13:40 午後の始めのセッションは、橈骨遠位端骨折治療の合併症やDRUJの問題などについて討議された。橈骨遠位端骨折治療後の尺側部痛の頻度については、1990年代は25-40%との報告がなされていた。しかし、この当時はピンニングや創外固定など主体となる橈骨側の治療がまだ満足できるものとは言えない時代だったためだ。この当時は橈骨側が術後転位を来すことも多く尺骨茎状突起骨折を止めるべきだったのだろう。ロッキングプレートの登場以降に関しては、我々の報告もさることながら、尺側部痛の発生頻度はかなり減ってきているものと思われる(当院dataでは軽度尺側部痛も含めて5%以下:follow up期間14ヵ月)。
解りやすい講義だったGupta先生.jpg
ルイビルのGupta先生に、尺骨茎状突起骨折を合併した場合、どのようなケースに内固定するのか?尺側部痛の発生頻度は?と質問してみた。答えは、まず橈骨側を固定した後に前腕回内位で徒手的にDRUJの不安定性を評価して不安定であれば(この評価についても突っ込んで聞いてみたが、明確な返答は得られず。Soft endという表現をしていたのみ)固定するとのこと。尺骨茎状突起骨折の生じた部位ではないとのこと。当然骨性要素がなくても不安定性がある場合はTFCCのrepairをするとのこと。しかし、二期的にやっても良いのかも知れないとも言っていた。やはり尺骨茎状突起骨折側の治療については若干治療体系に変化が見られている印象を受けた。また、DRUJ不安定性を生じた場合のサルベージ手術として、腕橈骨筋を筋腱移行部で切離し、遠位橈尺骨をrappingするという術式を説明してくれた。明日demoもあるそうだ。
15:10 coffee breakとなる。今日は座学だけなので疲れてきた。内容的には興味深い分野でもあるので眠くはならなかった。リトアニアのSmikus君はもの静かだ。大学病院(リトアニアには医学部は2つしかないとのこと)では、橈骨遠位端から遠位の分野を扱っているとのこと。いわゆるhand surgeonで整形のトレーニングはレジデント時代に少ししかやっていないとのこと。医学部は6年間で卒後試験を受け、1年インターン(全科を回るそう)をした後、2年間外科系なら外科のレジデントをするとのこと。それからorthopaedicなどに分かれていくそうである。Handはorthopaedicとは別でplastic surgeryもあまり扱わないのだそうだ。ちょっとドイツとは異なるよう。
15:30 本日最後のセッションは手部骨折・外傷についてであった。中手骨骨折、指節骨骨折と講義があり、最後に軟部組織複合損傷についてGupta先生が激しい症例をいくつも呈示してくれた。ルイビルにはかなり重度手部複合損傷がやってくるようだ。Severeな症例も見事に再建されているのには感動した。また、特にfix & flapの概念を強調されており、可能な限り早期に血流のある軟部組織で損傷部位をカバーした方が成績良好ということをdataを示しながら述べていた。日本でも北海道の土田先生が良く言っておられることである。Technicalに可能であれば目指せばならない到達点と思われる。
16:50 最後にcase disscussionがあった。机に備え付いているvoting systemを用いて参加者全員で検討していく。なかなか治療に悩ましい症例が続く中、PIP関節脱臼骨折(背側・掌側ともに骨片あり)に対して、経皮的に掌背側からscrew固定を行って良好な結果を得たという症例には驚かされた。
17:40 講義終了後にRobotic surgeryのDavinchシステムについて、Liverneaux先生が解説してくれた。また、実際にcadaverを用いて尺骨神経剥離のデモもやってくれた。あとで私も機械を扱わせてもらったが、思いのほか操作は簡単でかなり思い通りに動いてくれるのには驚いた。現在、適応は限られるだろうが今後は進歩していく分野(特にマイクロサージャリーなどでは)だろうなと考えさせられた。
遠隔手術装置ダビンチ.jpgダビンチのアームたち.jpg
18:10 1日目終了。バスに乗り込みホテルに戻る。
19:30 ホテルから食事会会場にバスで向かう。ストラスブールの景勝地、プチフランスと呼ばれる運河の畔の木組みの家々の街並みが美しい一角ということである。夜ではあったが観光する時間があまりなかっただけにちょうど良かった。
20:00 街灯のランプが暖色で何とも落ち着いた一角である。スイスやドイツの南西部に雰囲気が似ている(ストラスブールはアルザス地方に属しており、食べ物や文化など独特な雰囲気を醸し出している)。
夜のプチフランスエリア.jpgアルザス料理レストラン前.jpg
21:00 リトアニアのSmikus君とデンマークのRasmussen先生、S社の広報女性やプロダクツ担当の男性、クウェートの先生と一緒のテーブルだった。フランスの女性はこういう場では結構派手は格好になる印象。またドイツ女性よりスカート着用率が高いような気がする。ファッションにも敏感なストラスジェンヌが多いのだろうか?
レストラン内部.jpg
23:20 かなりいい感じになってホテルに戻ってきた。明日は起きられるか自信がなかったので妻に連絡して起こしてもらうことにする。

2009/10/26 国境を越えフランスストラスブールへ [旅程]

8:30 朝食はアットホームな感じ。量や種類は多くないが温かくて美味しかった。
9:20 荷物をまとめてcheck outする。ここは格安だったので良かった(33Eur)。トランクやリュックサックをロビーに預けて、街に出ることにする。
9:40 徒歩数分(昨日行ったフリードリヒス浴場の隣)でカラカラ浴場に到着した。ここはローマのカラカラ帝の名前が付いているが、その昔湯治に訪れていたとのことで由緒正しい温泉なのである。昔からこの地には有名人が訪れている(ビスマルク、ヴィクトリア女王、ナポレオン3世、ドストエフスキー、ブラームスなど数えてもキリがない)。
有名なカラカラ浴場.jpg
9:50 ここは水着着用なので、中の売店でパンツを購入してから入場した。ロッカーの使用方法などはフリードリヒス浴場と似ていたので今度は戸惑わずに準備完了。
10:00 中は結構広くて、まずは室内の大きな浴槽(プールのような感じ)が目に付き、そこではインストラクターが高齢者を対象に運動療法をワイヤレスマイクを使って指導している。そこのareaには一般人は入ることができない感じになっているが、その周りや露天にも大きな浴槽がある。その他日焼けマシンやアロマ蒸気サウナなどかなり充実している。
11:00 だいたい一通り回ってみた。温度は少し低め(長く入るためだからと思う)のため、時々サウナや暖かい浴槽に行かないと寒くなってしまう。温かめの浴槽に打たせ湯のような場所があるのだが(滝になっている)、80は過ぎているだろうというちょっとヨボっとしたおばあちゃんが何と果敢にもチャレンジしている。私も少しやっていたのだが、かなり滝の落差も高く水量もあるので結構キツイ。傍から見ているととても危なっかしくて心配になる(こうべを垂れまいと必至に耐えている顔も可笑しかったが、水流で肩ヒモが外れてしまっているのを見てしまい、私は見て見ぬふりをしてゆっくりと場所を変えさせてもらった・・・)。その後倒れたような形跡もなかったし、大丈夫だったのだろう。しかし元気な高齢者が多かった。
11:40 最後にお気に入りのアロマサウナに入り、遠赤外線にあたって身体を乾かし(タオルを持っていくのを忘れてしまったため)、ロッカーに向かう。昨晩とともに続けて温泉療養が出来たのでリフレッシュできた(この1泊で2ヶ月分の心労が癒せたかも知れない)。
12:10 カラカラ浴場を出て、芝生の遊歩道を奥に向かって歩くと隣には国立リウマチ療養所という施設がある。名ばかりとはいえ、温泉療法医の資格を持つ以上は見学しない訳にはいくまい。と言うことで患者のフリをして院内に潜入した。ここはいわゆる長期療養型の病院で理学・物理療法の一環として温泉治療も行っている。温泉医学の先進的施設と思われる。温泉治療では環境(自然・癒しなど)も重要なfactorを占めるので、このような落ち着いた場所で治療がなされればその効果も高まりそうな気がした。院内にはギャラリーなど癒し空間も作られている。このような場所での患者同士による語らい・憩いは、治療意欲を高め相乗効果をもたらすのかも知れない。しかし、病院入口にあったのっぺらぼう人形たちのモニュメントは意味不明だった。
国立リウマチ療養所.jpg入口のおっぺらぼうモニュメント.jpg
12:50 ホテルに戻り荷物をピックアップしバスで駅に向かう(ホテルの人に教えてもらい、帰りは石段ではなくエレベータで麓まで行けたので楽だった)。
13:10 中央駅に到着。列車の出発時刻まで多少時間があるのでインビスで軽食をとる。
13:30 快速に乗り、目的地ストラスブールを目指す。
13:50 自動改札の乗り継ぎを参考にして、Appenweier駅で降りる。何とここは無人駅であった!乗り換えのホームも少し離れた場所にあるのでトランクを引きずって移動せねばならない。しかも乗り換えの列車が来るまで50分もある。何もないこの無人駅に暫く放置されてしまう。周りには誰もいないし。外はそれ程寒くはなかったが、あいにくの曇天であった。仕方がないので日記をつけたりして過ごすが、それでも手持無沙汰になる。ホームにあるミラーに映った自分を撮ったりして遊んでもまだまだだった。
無人駅で独り遊ぶ.jpg
14:25 発車15分前になりようやく他の乗客が自転車に乗ってやってきた(こちらでは自転車ごと乗り込むことも珍しくない)。この頃になり次のOffenbourgで降りて、そこから乗ってきても同じだったことに気付く。始点・終点の駅なのでこちらの方が大きそうだし。。。
14:40 ようやく待望の列車がやってくる。国境間(Strasbourg⇔Offenbourg)を30分程度でつないでいる鈍行列車だ。しかしこの列車は基本的にドイツ語表記になっている。
14:52 Kehlというドイツ側国境の駅に到着。ここで結構乗客が降りて行った。ここを発車してライン川を渡るとフランスである。橋の真ん中に国境を表していると思われるマークがあったくらいで、スイスに入った時同様、特に変わりはない。
14:59 Krimmeri-Meinauというフランス側国境の駅に到着すると、ここからフランス語のアナウンスが先に始まった。外を走っている車のナンバーもユーロマークにFが付いている(ドイツはD)。
15:05 Strasbourg駅に到着。停まっている列車がドイツのものとは全く異なる。色もカラフルである。有名なTGVも停まっていた。ここがフランスであるということを強く意識させてくれる。ものの15分くらいの間に劇的に雰囲気が変わってしまったのには驚く。
TGV.jpgストラスブール駅.jpg
15:15 勿論、表記もアナウンスもフランス語なのでさっぱり解らない。ドイツ語に少し慣れてきたところだったのに今度はフランス語とは・・。あまり英語を併記してくれていない感じもする。取り敢えずインフォメーションセンターに寄ってホテルの場所を確認する。
15:45 バスやトラムでは遠い場所だったので已む無くタクシーを利用することにしてホテルに到着した(タクシーの運ちゃんが率先して荷物をトランクに片付けようとしていたのだが、最後にチップ分を請求された。。ここら辺はちょっとドイツと感覚が違う気がする)。ホテルの外観はぱっとしなかったが、部屋の中はかなり広く(台所まである)快適だ。街中から少し離れているのが不便であるが、周りは静かである。
16:00 受付の女性に市内中心地までの行き方を教わり、まずは歩いてトラムの駅まで向かう(この街はトラムラインが市民の重要な足となっている)。
16:20 市内中心までやってきた。トラムの交差点にもなっており、交通の要所のようだ。見上げると古びた大聖堂が見える。まずはそこを目指すことにした。
市内中心のトラム駅.jpg
16:40 大聖堂はこげ茶色に古びていて威厳がある。この間行ってきたフライブルグの大聖堂に何となく似た感じがする。中にも入ってみたがここは全体的に暗い感じ。しかし壁や天井の装飾物はしっかりした造りでかなり見ごたえがある。
ストラスブール大聖堂.jpg暗い大聖堂内.jpg大聖堂内のポール.jpg
17:40 何となく外が暗くなってくると、街の明かりと大聖堂が良く映える。また街中にメリーゴーランドがあったり、開けた広場のようなスペースでのんびりする人もいる。道行く人を眺めていると、何となく男女ともドイツ人より身長が低い気がする。またいわゆる真の金髪の人の比率が低くなり、スペインなどのちょっとラテンがかった感じの人が増えた気がする。あと黒人の割合も高まった気がする。などと小腹が減ったので、マックチキンを食べながらマンウォッチングをしていた。
街角から見える大聖堂.jpgストラスブール市内メリーゴーランド.jpg
19:00 市街地を一通り歩いて、またトラムに乗ってホテルまで戻る。トラムの駅からホテルまでがちょっと遠く(直線なのだが、歩いて12-3分はかかる)、夜は辺りが暗くて寂しい。
19:30 ロビーで(ここで無線LANに接続できる)インターネットをしていると、明日のセミナー参加者っぽい人たちがcheck inしている。参加者名簿を見てみると日本からは自分だけで、ロシアからはツアーで10人近くやってきているようだった。

2009/10/25 中継地であるバーデン・バーデンに滞在する [旅程]

8:30 朝食会場に向かう。昨晩、日付が入れ替わってからサマータイムが終了したため、1時間遅い時間に設定し直さなければならない(今までAM7時だったのが、今日からAM6時になるということ)。今回はたまたま学会でこの情報を知り得たが、もし知らないままだったらちょっと大変だったかも知れない。そのお陰で今朝は1時間得した気分でゆっくりできた。
9:00 小雨がぱらつく中、昨日も回ってみた蚤の市(ホテルのほぼ前から始まっている)に再び行ってみる。まだ少し時間が早かったこともあり、まだ準備している店も多く人出も少なかった。幾つか気になる品々もあったのだが、これ以上荷物が増やせられないということもあり購入は断念してしまった。
10:00 ホテルに面した6月17日通りを駅を越えて蚤の市と反対方向に向かって15分ほど真っ直ぐ歩いて行くと、ロータリーの中央にそびえ立つ高い塔が現れる。戦勝記念塔のジーゲスゾイレという観光スポットである。あいにく天気は良くなかったが、入場料(2.2Eur)を払い最上階の展望台まで登ってみることにした。高さは67mで階段は285段ということだからそれ程高くはないのだが、上に行けばいくほど階段が狭く何となく頼りなくなってくる。また何となく揺れる感じもする。プチ高所恐怖症の私は、頂上が近付くにつれ会陰部周辺に何とも表現のし難い引き締まり感を覚える。一人、先に頂上で手すりにもたれかかって(壊れたらどうするんだ?とか焦っている・・)、写真なんかを気軽に取ったり電話したりしている。雨で少し風もあるため、こちらは恐る恐るぐるっと一周して記念にさっと写真を撮っただけ。滞在時間ものの数分のみ。
戦勝記念塔ジーゲスゾイレ.jpg縮みあがる思いで撮影した展望台からの風景.jpg
10:40 ホテルに戻り荷物をまとめた後、check outする。多少覚悟はしていたが、予想以上に高額だった(インターネット接続料も結構高い)。ホテルは快適で立地も良く申し分なかったので仕方あるまい。
10:55 ベルリン中央駅に到着。ここからテーゲル空港行きバスに乗り込む。車内は修学旅行生の集団もおり混雑している。少し時間があったので駅周辺を見回すとヘンテコなモニュメントがあった(ハイデルベルグ駅前にもちょっと似たモニュメントがあった)。
ベルリン中央駅前のモニュメント.jpg
11:20 空港に到着する。さんざん遠回りしたあげくエア・ベルリンのカウンターに出向きチェックインしようとすると、シュトットガルト行きは別のターミナルになりますと告げられる(e-chicketには記載されていなかった!)。
11:40 急ぎ足で目的のターミナルに移動(ベルリンに到着した時もそう言えばこちらのターミナルだったなと今になって思い出す)。こちらはあまりお店など多くない感じ。心配だったトランクだが、重量計を見ると21.8Kg(20Kgを超えると超過料金)。ちょっとマズイ!と思ったが、こちらの係の人は全く気にもせず素通りさせてくれた(まあこの程度は誤差ということでおまけしてくれたのだろう。それか全く気付いていないか)。
12:00 搭乗口にてようやく落ち着けた。3泊4日のベルリン滞在だったが、学会だったこともあり、観光はあまりゆっくりと出来なかった気がする。ベルリンは大きな街なので見どころ全てを回ろうと思ったら、この程度の滞在では回り切れないだろう。ここはドイツ一の大都会だった。しかし、個人的には素朴な田舎町の方が、真のドイツっぽさを感じるような気がする。ただ歴史に翻弄されてきた街でもあり、特にベルリンの壁を見ることが出来たのは多いに刺激になった。
12:40 離陸する。1時間15分のフライトなので、日本で言うと、東京→広島間くらいの距離であろうか?軽食が出てあっという間に着いてしまった。
14:00 シュトットガルト空港に戻ってきた。トランクは無事に手元に戻ってくるが、片側のロックのキーが若干緩んでしまっている。扱いが乱暴なのか?荷物が重すぎるのか?
14:50 Sバーンでシュトットガルト中央駅に到着。ここは何度も留学中に観光の拠点として利用していたので馴染みの駅だ。勝手が解るので何となく落ち着く。
15:08 自動販売機で切符を購入し、カールスルーエ行きIC(急行)に乗り込む。27日からフランスのストラスブールで開かれるセミナーに参加する予定なのだが、本日は中継地として、バーデン・バーデンに宿泊することにしているのである。
15:50 カールスルーエ駅に到着。トランクが重いため、ホームの移動が一苦労である。何故か乗り換えの列車待ちの人が列を作っている(トーレニングウェアの集団が多かったので何か大会でもあったのだろう)。
16:04 快速列車出発。何とか座ることが出来てほっとする。
16:30 目的地バーデン・バーデンに到着した。駅は街の中心から結構離れているため、ここからまたバスで移動することになる。
16:45 街の中心部レオポルド広場に到着。ここは先日、Hoentzch教授らと研修会に来た時に一度訪れているので、何とか土地勘はある。本日宿泊予定のホテルアムマルクトを目指す。地図では便利の良い場所にあったので選んだが、何と石段の上の方にあることが判明。何とか休み休みトランクを持ち上げて石段を登り切る。かなり良い運動になった。
17:10 ホテルにチェックインした後、ガイド本で調べていたレストランに向かう。今日は昼を抜いているので多少贅沢しても良いだろうとううことで割とよい店を選んでみた。
ホテルアムマルクト.jpgレストランラテルネ.jpg
17:30 まだ時間は早かったが少しずつお客が増えてくる。人気の店のようだ。アルコールは控えたが、こちらシュバルツバルト地方の郷土料理をオーダーしてみた。ガーリック風味のチキンで久しぶりにhitだったと思う。
名物コース料理.jpg
18:15 ホテルですぐ近くのフリードリヒス浴場の割引チケットを購入しお風呂に向かう。徒歩数分で到着したその建物は、ルネッサンス風といいうのだろうか?かなり豪華な浴場である。
フリードリヒス浴場入口.jpg
地球の歩き方には、入浴にはタオルも水着もいらないとある。色々と勝手が異なり戸惑いつつも中に入ることが出来た。だいたい3時間くらいのコースとなっているようだ。熱蒸気浴室、異なる温度設定の浴室、大浴場(プールのよう)などかなり広い。ここはゆっくりとリラクゼーションしながら入る浴場のようである。問題は全裸で回らなければならず、またそれに加え混浴であるということである。日本人には慣れてないシキタリだが、多いに社会勉強となった。

2009/10/24 ベルリンの壁とは何だったのか? [休日]

9:30 朝食会場に向かう。ビュッフェ形式でなかなか品数が多い。オムレツをその場で焼いてくれる。たいがいこのサービスのあるホテルは良いホテルが多い印象。オレンジを生で絞って飲むのも楽しい(2個分でちょうどコップ一杯)。
10:20 観光に出かける。気温は低めなので重ね着をして防寒対策とする(厚手のコートは持っていかなかったので)。またミュンヘンでサッカー観戦の時に買ったマフラーがあったのでそれを着用する(しかしベルリンでバイエルンミュンヘンのマフラーを身に着けるのは、大阪で巨人の帽子をかぶる感じか?)。ホテル前から6月19日通りをベルリン工科大学側に向かう路上では蚤の市をやっている。結構規模が大きく、ゆっくり一周して40-50分かかってしまう。寒かったので手袋が欲しく、1周してから目を付けていた店で10Eurを8Eurにしてもらって購入(革製のしっかりしたものなので結構お買い得と思う)。その他、旧東ドイツの帽子や古道具など、また昔の使用済みの絵ハガキ(旧東の消印が貴重なのか?)なども売りに出されている。本当に色々な物が売られているのだが、人形がソファに並べて座っているのはちょっと怖すぎ。。。
6月17日通りの蚤の市.jpg蚤の市に何で手術道具が?.jpg怖すぎるお人形さんたち.jpg
11:30 一駅分歩いて、ツォー駅(動物園という意味)にUバーンで向かう(1日乗車券を購入しておく)。ここには有名なカイザー・ヴィルヘルム教会がある。19世紀末に建てられたネオロマネスク様式の教会(ガイド本情報)だが、1943年の空襲で破壊されてしまったそうだ。修復せずに崩れたままの姿で保存されている。その点、広島の原爆ドームに通じるものがある。戦争の悲惨さを後世に伝えるためのモニュメント的役割を果たしているものと思われる。また目を見張るのが、その隣の八角形の建物(戦後に新しく建てられた教会)で、内部が深い青色のステンドグラスに覆われており、その迫力に圧倒されてしまった(しかも入場料無料)。パイプオルガンの音量も凄い。
修復されていないカイザー・ヴィルヘルム教会.jpg青色のステンドグラスが美しい教会内部.jpg
12:15 インビスでカレーブルストをまたもや購入(こちらに来て何回食べただろうか?)。ちょっとした広場でパフォーマンスをしている集団がおり、人だかりを作っている。
12:30 市内巡回バスツアー券を購入する。これは市内15ヵ所のポイントで自由に乗り降りが出来るものでバス車内では各国の音声ガイドがついている(日本語もある)。しかも、10-15分置きにやってくるので結構便利(20Eur)。これとUバーンを使えばたいていの見どころは抑えられると考えた。
13:00 音声ガイドを聞きながら、まずはポツダム広場で降りてみる。ここはかなり近代的な建物が立ち並んだ空間で、さながらメトロポリタンといった趣きだ。その中心的建物がソニーセンターである。テント屋根に覆われた広いこの建物は、この一角の象徴的存在と思われる。東西分裂時代は壁際にあったことより、開発は壁崩壊後に一気に加速したとのことである。
14:00 Uバーンでユダヤ人犠牲者記念館に向かう。コンクリート製のブロックが広い敷地内に迷路のように並んでいる。ここは虐殺されたユダヤ人の捧げられた記念碑である。
ユダヤ人犠牲者記念館.jpg
14:15 歩いてブランデンブルグ門にやってきた。ここはベルリンの最も有名な観光スポットと言っても良いだろう。分裂時代は門のすぐそばに壁が築かれていたため、この門をくぐることは出来なかったが、今では誰もが通れるようになった。いわば統一ドイツの象徴的建物なのである。銅像に扮したパフォーマーと一緒に写真を撮っている人など観光客がとても多かった。その後、ドイツ連邦議会議事堂を通り(中も見学できるのだが長蛇の列を作っていたので諦めた)、Uバーンの駅に向かう。
ブランデンブルグ門前で銅像パフォーマー.jpg行列の連邦議会議事堂.jpg
15:00 Sバーンに乗り換え、オスト駅に到着。ここからシュプレー川に向かって歩いていくと、ベルリンの壁が一部残されている場所がある。そこはイーストサイドギャラリーと呼ばれ、1.3Kmに渡ってドイツ内外のアーティストが描いた壁画がオープンギャラリーになっている。色とりどりの絵を興味深く見ながら歩く。途中、老健施設の職員風の人達が高齢の方々を車いすに乗せ、押しながら見学している集団を見かけた。旧東の方々なのだろうか?あの時代を思い出しているのかも知れない。ちょうど駅一つ分歩いた。
有名な首脳同士の接吻.jpg壁画を描くアーティスト.jpgイーストサイドギャラリーにて.jpg
16:00 もう一つのベルリン名所である、チェックポイントチャーリーに到着(ベルリン初日に飲み会をした場所から実は近かったのを改めて知る)。ここも観光客が多い。絵ハガキにもなっているポイントで写真撮影。改めて壁があって分断されていた当時に思いをよせてみる。
チェックポイントチャーリー.jpgチェックポイント看板.jpg
16:40 市内巡回バスに乗り込む。ちょっと歩き疲れていたのでちょうど良い休憩となる。ガイドで案内を聞きながら、博物館の島のあるエリアで降車することにする。
17:00 ベルリン大聖堂を眺めながら、DDRミュージアムに入ってみる。DDRとは旧東ドイツの略称。当時の市民の暮らしを再現した博物館でそれ程広くはないが、レトロなデザインのプロダクツやら変わった生活を垣間見ることができた。ここも中はとても混雑していた。今日はどこも観光客でいっぱいな気がする。
17:20 ペルガモン博物館に到着する。受付で18時までですよと言われ、いったん諦めて帰ろうとしたが、まあちょっとでも見ていくかと戻って入場料を払おうとすると、学生料金(半額)で入れてくれた。残念がって可哀そうに見えたのだろうか?ちょっとラッキー。音声ガイドは無料(日本語もある)で貸してくれるので親切。ゼウスの大祭壇やバビロニアのイシュタール門(青い色のレンガを使用している)などいずれも博物館の中にあるとは思えないようなスケールの大きさに圧倒されてしまう。歴史にはあまり興味がなかったので、これくらいの時間でも十分満足だった(疲れていたのもある)。
ゼウスの大祭壇.jpgバビロニアのイシュタール門.jpg
18:00 博物館の島の蚤の市(ちょうど店じまいの頃だったが)を通って戻る。ここのはアート&ノスタルジーマーケットというだけあって絵画や工芸品なども結構置いてあった。
19:00 バスで戻ったのだが、間違えて少し早めに降りてしまう。ちょうど、ベトナム料理店があったので、迷わず入って夕食をとった。今日も充実した一日であった。

2009/10/23 ドイツ整形外科学会の中で日独整形外科学会が開かれる [平日]

8:15 ホテルフロント前にて集合。日本からの集団でバスをチャーターしてくれている。この学会は、実にいろいろと手配してくれているのだ。お陰でかなり楽をさせてもらいました。外はあいにく小雨がぱらついている。
8:40 学会会場であるメッセベルリンに到着。非常に広い。建物は少し古い感じもするが幕張メッセよりも大きいと思われる。でも会場に比較して入り口は小さく解りづらかった。
ドイツ整形外科学会入口.jpg
我々は事前に登録を済ませてあった(すでに学会参加証が送られてきていた)ので、受付は素通りして参加証をぶら下げて中に入って行く。するといきなり展示場が延々と続いている。かなりたくさんのブースを通り過ぎてから、各会場に行くという構造になっている。この学会は各ブースの展示の方が重きを占めているのではないかという程である。
9:10 15分程歩いてようやく日独整形外科学会会場に到着。横に広い感じの独特な造りになっていた。80人程度は座れるだろうか?大方それ位の規模である。みな順番にPCに本日の発表スライドをコピーしていく。若いドイツの青年が担当してくれていた。
9:30 学会が開催された。ドイツの学会でありながら、8割以上が日本人という何となく違和感のある雰囲気。しかも使用言語が英語という不思議な学会である。 始めのセッションは人工関節の長期成績という内容だった。ドイツ側からも3題ほど出されていたが、ドイツ側代表の何人かの重鎮の先生の施設からだ。たまにはいろいろと他分野の演題を聞いてみるのも新鮮で面白い。
10:50 休憩。だいたいこちらの学会は休憩が長いのが特徴で軽食が振る舞われる。知人との語らいの時間として有効に利用しているようだ。私は展示場を少しずつ回っていた(何しろかなり広いので下手に動き回ると戻って来られなくなってしまいそうなのだ)。
11:30 多くの企業が出店している中で大きさと集客力で群を抜いていたのが、Depuy社だった。ここは、ベルリン名物Curryburustを無料で振舞っていたのだ。ブースに休憩所があり、ドクター達が飲み食いしながら語らっている。しかし、あまり展示内容には興味なさそうだった。他にはカクテルやビールを出しているブースもあり、ここら辺はドイツならではという感じ。今回、AO fellowshipの際に事務局になってくれていたSynthesのブースも比較的大きかった。ここはしっかり商品説明にも力を入れていた。新しかったのは、肋骨骨折用のインプラント(救急医療の分野では多発外傷に伴う多発肋骨骨折に対しては、早期に骨接合を行うことで疼痛管理、呼吸器合併症が減るという発表なども増えている)である。ロッキングに加えて、片側は平たい髄内釘のようになり、肋骨髄内に差し込むようになっていた。また興味深かったのは、Armyの医療支援で使用する特設手術室の展示である。室内は普通の手術室と遜色ないほどの造りになっている。軍服姿の担当者が格好良かった。
お世話になったSynthes社前.jpgArmy特設手術室展示.jpg特設手術室内.jpg
12:30 日独整形外科学会の方に戻ると(このセッションは聴講しなかった)、ちょうど昼休憩に入る所だった。会場外に食事が準備されていたので頂いた(ちょっと味の濃いポタージュスープやウィンナー、サンドウィッチ類など)。日本側の参加者たちと挨拶をしたりする。こういう時に名刺は便利である(今回留学前に自宅で作成した)。国内では敷居の高そうなビッグネームの先生方とも、異国の地では比較的気軽に話せるようになるから不思議なものである。さて、まだ時間に余裕もあるため、展示場をくまなく回ってみよう。展示場巡りの一つの理由として、新たなマテリアル、インプラント類の発掘がある。しかしいくら回っても吸収性のプレートにはお目にかかれなかった(香港のSICOTの時は見つけられたのだが)。しかし新しい骨補填材料に関しては、多くのメーカーが各種アピールしていた。また、こちらではalograftも良質なものが提供できるようである。Depuy以外でもCurryburstを振る舞っているブースがあった(申し訳ないが現地のメーカーで何を扱っていたのかも覚えていない)。イイ匂いにつられて行列に並んで食べてしまった。他もぶらついてみると、救急ヘリのブースもあるのには驚いた。
救急ヘリブース.jpg
14:30 午後のセッションが始まった。今度は脊椎である。日本でもそうだが、人工関節・脊椎はどこの学会でも内容豊富で盛況だ。しかし外傷や手の外科というのはたいがいこのような規模の会だとその他になってしまう。日本人でドイツ語の上手な先生も何人かおられ、ドイツ語で発表されていた。ただ、時間にはルーズな人も多く、しっかり時間を守っている人の方が少ない感じだった。
16:00 休憩時間。あるブースでは、若いモデルの女性を下着姿にさせいわゆる柔道整復や按摩のような施術をしていた。見学者の中にはモデルを見ているのか手技を見ているのか解らない者もいる!?(でも見ている人は少なく意外と人気ない)。すると、前方よりHiユキチ!と言ってくる人がいる。BGのtraumaの若手先生だった。ちょっとでも一緒に働いたことがあるから、こういう場で会うと妙に嬉しい。
16:30 最後のその他セッションが始まる。口演5分、討論殆どなしという感じで進んで行く。非常にtightなスケジュールになってしまっている(ポスターではなく、全ての演題を口演で採用したためこのようになったとのこと)。
17:15 予定より10分位遅れて自分の口演開始。2回ほぼ同様の内容で発表したことのある内容だったので、それ程緊張はなかった。質問は座長から1つとフロアから1つのみだった。何とか終わってくれてホッとする。
日独整形外科学会口演.jpg
この後、PCの入れ替えで時間がロスしたり、発表時間を守らないなどの影響もあり、予定より30分程度遅れて終了となった。
18:30 歩いて15分くらいかかる入口に到着。バスが外で待ってくれている。雨は幸い止んでくれていた。外はもう真っ暗になっている。
18:50 ホテルに到着。これから昨日に引き続き懇親会が催されることになっているので、荷物を置いて急いで準備する。またバスで送ってくれる。至れり尽くせりだ。
19:40 パーティー会場に到着。日本ではまずないであろうコンセプトのレストランだった。何とレストラン横に大きなガレージが併設されており、クラシックカーが展示されている。これらには値札がついているので、気にいったら購入することができるようだ。残念ながら車にそれ程詳しくないので、どの程度価値があるのかは解らなかったが凄かった。
レストラン併設ガレージのクラシックカー.jpg
20:00 パーティー開始。今日もコース料理のようだ。飲み物もワイン・ビールとどんどん出てくる。兵庫の田中先生夫妻、神戸の謝先生夫妻などと同席させて頂き、先生方の懐かしいドイツ留学話を興味深く聞かせてもらった。当時は東西分裂時代でもあり、飛行機もアンカレッジ経由だったり、今のようにインターネットや携帯もない時代だったので情報収集が大変だったことなど苦労話も聞くことが出来た。
田中・謝夫妻とともに.jpg聖マリア病院吉田先生と.jpgドイツ側代表Scholz教授と.jpg
21:00 jet lagで眠くなってしまう方もいたが(特に奥様方など)、宴もたけなわになる。多くの方々と情報交換も出来たので有意義な食事会だった。
22:30 バスでホテルに戻る。今日も結構ほろ酔い気分である(昨日より)。留学も発表も終わってしまったのでホッとしていたのかも知れない。

2009/10/22 テュービンゲンからベルリンへ [旅程]

5:50 起床する。何だか早く目が覚めてしまった。今日でこの病院も最後だからかも知れない。外はまだ真っ暗であるが、今朝のカンファでの挨拶をもう一度考えることにする。
7:10 ネクタイを締めて出勤する。長らく世話になったRahmanianの部屋に出向く。借りていた本を返し、日本のものをお土産に幾つか置いておくことにした。彼は旅行先からお別れの電話をくれていた。彼には色々と振り回されたこともあったが、基本的に彼のお陰でドイツでの生活が非常に楽しいものとなったことは間違いない。
7:30 最後の朝のカンファレンスが始まる。始めに、教授が箱にドイツのお菓子やビールなどを詰めた物をプレゼントしてくれた。サプライズの貰いものに戸惑ってしまった。カンファの最後に予定していた挨拶をこの場でする感じとなる。つたないドイツ語での挨拶を無事言い果たすと、今日は拍手をもらった(しかし、後でManoliに単語の間違いを指摘されたけど。。キビシー。でもわざわざ言ってくれるなんていい奴かも知れない。最後には仲良くなれた気がする)。
8:00 病棟のNs.ステーションに寄り挨拶(ちょうど回診中なのか人は少なかったが)。
9:00 部屋に戻り、荷物を詰め直す。どう考えても今日の貰いもののせいもあり、重量オーバーの気がする。トランクが重くて階段などが辛い。。
9:50 8週間過ごした住処を後にする。始めは何もない味気ない部屋だったが、だいぶ愛着が沸いてきた所だった。そこに同じフロアにインド人2人がやってきたものだから、ちょっとした寮生活のような雰囲気も感じられ、それなりに楽しい思い出となった。
10:10 バスで中央駅に向かい、トランクの重さが気になっていたので駅前の郵便局に出向いてトランクの重量を計測してもらう。何と29Kgもあった!格安チケットのため、20Kgを超える荷物を預ける場合、超過料金(かなり高い!)を取られてしまうのである。そこで、トランクから9Kg分を取り出して、小包にして日本に送ることにした。お陰でトランクは軽くなり、段差などの移動がかなりスムースになった。何度も利用させてもらったテュービンゲン中央駅を後にする。
ドイツ郵便局.jpgお世話になったテュービンゲン中央駅.jpg
10:40 シュトゥトガルト空港行きのバスに乗り込む。すると、な・なんと!運転手がまたあいつだ。そう、私が寒い山道でヒッチハイクまがいのことをすることになった張本人(本当は自分もいけないんだけど・・)である。このバスに4回乗った訳だが、3回がこの彼であった。75%の確率の高さ。しかもまたグラサンしている。つっけんどんの対応も相変わらずだった。もう彼は忘れているかも知れないが、私はあの寒かった日をおそらくずっと忘れはしないだろう。
11:30 空港に到着。思ったより大きな空港だ。国際線も多い。何があるか解らないので早目にチェックインしておくことにする。航空会社はエアベルリンという少しマイナーないわゆる格安会社。心配だったトランクは問題なく預けることができた。
12:00 カフェで軽食をとりながら、行き交う人々をぼっーと眺めている。
12:30 まだ時間があるので空港内をうろつく。帰りもここを利用することになるので、Sバーンの乗り方などを確認しておく。途中、幼稚園児の集団が手をつないで歩いている。こちらの小さい子は男の子も女の子もお人形さんみたいで可愛らしい。
飛行場で幼稚園児集団に遭遇.jpg
13:20 搭乗口に向かう。比較的込んでいる。エアベルリンはドイツのいわゆる格安航空会社であるが、その中でも格式は高い部類にあるらしい。東西ドイツ分裂時代に西ベルリンに就航できるようにするため、米国で創業されたとか。今はドイツに資本を移しているらしいけど。
14:15 出発する。スチュワーデスさんの制服はかっちりしており、キレイな人が多い感じ。途中、飲み物と軽食(コーラ・チップス)が出された。
15:30 ベルリンテーゲル空港に到着する。外はわずかに雨が降っている。気温はやはりテーュビンゲンよりは低いので寒い。
15:45 無事に荷物をピックアップし、街中に向かう(バスが一番安いし便利)。
16:00 バスで街中を走りながら、市内見学。ここベルリンは今まで観光してきたドイツの街の中では当然都会なのだが、今建設中の建物も結構多い。また一風変わった建物も時に見かける。アーティストの集まる都会ならではなのだろうか?その外観が目をひくベルリン中央駅に到着する。中央駅なのだが、周りにはまだ多くの店などがある訳ではない。新たに広い土地に建設した大きな駅のようである。ホテルの場所がまだイマイチ把握できてなかったので、タクシーを利用することにした。
ベルリン中央駅.jpg
16:15 ノボテルベルリンに到着。結構大きくてきれいなホテルだった。
16:30 チェックインし、部屋で荷物を開いてゆっくりする。今晩は、日独整形外科学会の懇親会が市内で開かれることになっているので、その場所を下調べしておく。
17:45 ホテルを出てSバーンで目的地に向かう。途中乗り換えがあるが、鉄道路線は結構整備されており、だいたい目的地の近くまでは行けるようになっている。ベルリンっ子を車内で観察していると、人参を生でポリポリ食べている若い子がいた。。。あとピアスを鼻や唇につけている人も良くみかけた。
18:15 目的地駅に到着。待ち合わせのヒルトンホテルに向かうが、途中ちょっと迷ってしまった。
18:30 現地での世話人の方や参加者に遭遇する。基本的に知り合いはいないので、集まるのをじっと待っている。どうやら隊長の永田先生が遅れているらしい。
19:00 ようやく集まってきたようで食事会会場へ移動する。ちょっと洒落た感じのレストランだった。ドイツ人も何人か来ており、総勢30人程度というところだろうか?
19:30 ちょっと遅れて会が開始される。参加者は久留米大の永田教授を会長に、聖マリア病院の吉田先生や久留米大の関係者が5-6人、兵庫医大の田中寿一先生、昭和大藤が丘病院の関係者の先生も5-6人来ていた。あとは様々な感じ。若い先生も比較的多い印象。
20:30 席は指定されており、私はこの会を主催している、LINKというメーカーの社長さんの隣でドイツ人のドクターが前という何故か緊張するような席になってしまっていた。食事はいわゆる西洋料理のコースとワイン・ビールなどであった。ここの肉は柔らかくて美味しかった。
西洋料理コース.jpg
22:30 結構、盛り上がって会は終了した。タクシーで乗り合わせて帰る人たちや、昔ベルリンに留学したことがある先生に連れられて何人かでバーに行った人もいるようであった。自分は酔いさましも兼ねて、駅まで歩いて、電車を乗り継いでホテルまで戻った。途中、夜間ライトアップされた建物(たぶんコンツェルトハウスだと思う)が綺麗だった。
コンツェルトハウス?.jpg

2009/10/21 事実上最後の研修日となった [平日]

7:30 いつものように朝のカンファレンスが開始される。Bratani医師が症例を提示している。研修初日のカンファの時はこれからどうなるだろう?と不安な気持ちが強かったが、終わりが近づくとそんな思いも随分前の記憶のような気がして懐かしい。かと言って内容を理解できているかと言うと、必ずしもそういう訳ではない。結局は雰囲気だけ。Philipがいつまでだったっけ?と小声で聞いてくる。研修は今日までだけど、明日の朝のカンファが最後になるんだと言った。シャーデ!(残念!)と。
7:45 今日は色々と忙しい。まずはベルリンでの発表原稿や航空券のe-ticketなど、重要なdocument類をプリントアウトしなければならない。この病院のPCは外部からのUSB情報などは認識されないようになっている。院内のEDVというユニット(コンピューターなど情報処理を扱う部署)にUSBを持参し印刷をお願いした。厳重にsecurity checkがなされており、ここを通さないと院内PCの情報も持ち出せない(今や日本でも当然のシステムになっていると思う)。ここのSchanzさんという方は、いかにも機械に詳しそうで頭の良さそうな人だった。
8:15 今度はPostelleという院内の郵便物を扱う部署に出向く。若い女性しかまだ来ていなかった。昨日の事情を説明し、荷物の内容物を減らしたいのだと告げる。重い本類など6Kg分除いて、服類など少しかさばる荷物1Kg分を追加した。Just 20Kgで料金は82Eurだった。DHLの航空便(2週間かかるが)で日本まで運んでくれる。2つに梱包し直せば良かったのだが、面倒だったのと帰りは意外と荷物が少なくなっていたのが幸いした。
9:00 手術室に出向いてみる。今日もHPRVは大きな手術予定は組まれていない。Lotter医師がデュプイトレン拘縮の患者のPIP関節破壊(理由は不明?)に対して、関節固定術を行っていた。術前状況やこうなった経緯など聞けずじまいだったので、?が残る手術となってしまった。
9:30 隣の部屋ではtrauma teamが脛骨骨幹部骨折変形癒合(骨髄炎の合併も疑われる)に対して、創外固定器(hybrid type)を用いた変形矯正・固定を行う予定になっている。このような感染症例はこちらのseptic区画で行われる。執刀は、今日ベルリンに経つ予定のHoentzch教授のようだ。少し遅れて登場。手術中は結構恐い感じで下の先生を熱心に指導している。事前に存じ上げていなかったが、この先生は創外固定の権威の先生だったのである。知らないとは何とも恥ずかしい限りである。今日が最後だと思い集中して手技に注目していた。下の先生にさせていたが、細かな注文が実に的確で鋭かった。20°以上あった角状変形は矯正して(骨切りは行わず)10°以内におさまった。今後Xpを確認しながら徐々に矯正していくと言っていた。
下腿骨変形遷延癒合.jpg下腿骨髄炎疑い.jpgかわいいプロテクターをつけるヘンチ教授.jpg
10:40 教授は帰っていかれたが、まだ脛骨前面をデブリした部分が閉鎖できていない。VACしておくのかと思いきや、何とか頑張って閉じていた(しかし創縁が血流不全にならないようにガーゼをはさむなどの工夫はみられた)。壊死しなければ良いが・・・。
創外固定設置中.jpg
変形遷延癒合部矯正後.jpg
11:30 いったん病院の部屋に戻る。今日の夕方のカンファでHPRV全員に絵葉書(日本からの)を渡す予定にしていて、名前を漢字で書いておこうと思い立ったのだ。秘書さんに全員のフルネームのリストを貰って、当て字を考えることにした(例えば、Hans-Eberhard Schaller Prof. : 班主絵羽亜鳩 車羅唖 教授、Theodora Manoli : 瀬尾努羅 真海苔など)。その医師の雰囲気に合うような漢字を当てたいのだが、なかなかこれと言うものが思い浮かばない。結局は不吉な意味の漢字以外で作成するほかなかった。
12:30 自分の部屋に戻り、昨晩下ごしらえだけしておいたお好み焼(馬鹿の一つ覚えのようだけど・・)を焼いておく。夕方のカンファは何人集まるか解らないのだが、少し多めに準備しておこう。
13:30 再び、手術室に戻る。asepticの方も顔を出してみるが、trauma teamは学会出張のドクターが多いためか手術が比較的少ない。急患手術室の方はHPRVの小手術がいくつか行われていた。手術室での知り合いには簡単にお別れの挨拶をしておいた。今日はウィンクするファビアンやベテランスザンナがいなかったのが残念だ。結局彼女らには挨拶できずじまいとなってしまった。
14:30 もう一度septicの方の手術室に向かう。殿部の局所皮弁が予定されていたのだが、火傷患者の緊急手術が入っていた。JaminetとZwick医師が気管切開をしている。気道熱傷による浮腫予防の手段だ。Plastic surgeonもburn patientを扱うのであれば、少なくともできなくてはならない手技のようだ。その後、熱傷部位のデブリに入っていた。合間に優しげなまなざしのおじいさん看護師(Willy)が若手Nsと一緒の写真を撮ってくれた。Willyにもお別れを言った。それを聞いていた手術中のJaminetがカローシ・ユーキチ!今日で終わりか~?と聞いてくる。研修は今日までだけど、また明日の朝のカンファには来るよ。Alles Klar!(了解!)、Chao!(Tschues:バイバイよりさらにくだけた感じ。んじゃ!)
手術室若手Nsとともに.jpgベテラン看護師Willy.jpgカローシJamninet.jpg
15:00 大方焼いておいたお好み焼を持って来て、カンファ室横のキッチンで再度焼き直す。患者さんが一人待っていたので、ソースの臭いが漂っていたかも知れない。皿やフォーク類は置いてあるので、準備完了。あとはいつ持ち込むかのタイミングを図らねばならない。夕方はカンファ中に患者さんを診察することも良くあるからである。
15:30 カンファが始まる。今日は幸いSL離解による手関節痛疑いの患者一人だけだった。
今後手関節鏡を検討しているとのこと。少し経ってから、ワゴン車に乗せて飲み物(コーラ・スプライト)とともに持参する。皆、どうした?みたいな雰囲気になって、少しカンファが中断する。つたないドイツ語でお礼のあいさつをして(例の机を叩く拍手がわりをしてくれた)、振る舞った。残念だったのは、教授が魚とエビにアレルギーがあるらしく、食べられなかったことだ。気持ちだけで嬉しいとは言ってくれたものの(事前checkが出来なかったのも悔しい・・)。また、出来たてではなくなったのでへなへなになってしまった。若手には好評のようだったが、ちょっとしょっぱ過ぎたかも知れない。
16:00 漢字名前入り絵ハガキやドイツ語・日本語対訳表をあげる。8週間のお礼として奇抜で良かったみたいである。漢字は皆喜んでくれた。教授もこんな細かい字を書くから日本人や中国人は器用なのかな?漢字はマイクロの練習にもいいかも。とか言っておられた。その後、飲み食いしながら、先日のSchaller教授主催のドイツ手の外科学会の写真集(カメラマンが撮ってくれたもの)を皆でスライドショーにして観覧した。いろいろと学会中の出来事もフラッシュバックしていたようで、笑いありの楽しいひと時だった。最後には記念撮影をしてくた。HPRVチームのメンバーはこちらから語りかければ気さくな先生も多いが、基本的にはtrauma teamの先生よりはあっさりとクールでスマートに仕事をこなしていく先生が多かった。Nusche先生が寄ってきて、明日の朝は来られないから今日が最後だと言ってわざわざ挨拶しに来てくれ、食器の片付けまでも手伝ってくれた。何とも優しい先生であった。最後にManoliが今日、当番で病院にいないといけないんだけど、この余りもらっていっていい?と訊いてきたので差し上げた。残されるよりは嬉しいものだ。
HPRVメンバー.jpgいつも陽気なDr.Nusche.jpg
17:00 Philip(まだ学生)に余ったふりかけをプレゼントする。ライスにかけるんだよと念を押しておく。こちらはあまりライスを食べないから。ライスはパサパサだからどうかな?
17:20 長いようであっと言う間だった8週間弱の研修が終わってしまった。だいたい6週間HPRV、1週間Trauma、1週間 学会や休暇と言うメニューだった(週末は殆ど自由に過ごさせてもらったし)。自分的には異国の地での生活ができたという点でまず満足している。ドイツ語がもっと理解できていたら更に充実した研修になっただろうけど、現実的には無理な話。やはり英語力だと思う。インド人が強気でいられるのは、母国語のように彼らが英語を巧みに(しかし発音はエラく訛っている)使いこなせるからなのだ。知識はあっても語学力のために討論できなくなってしまうこともしばしばあって、歯がゆい思いもした。若いドクターは是非、外人と対等に討論できるだけの英語力を早めに付けておいた方が良いと思う。

2009/10/20 そろそろ終わりが近づいてきたのを実感する [平日]

7:30 朝のカンファレンスが始まった。また昨晩、急患手術があったようだ(深夜3時から手術を開始したとのこと。呼ばれなかったけど)。上腕部の鋭的損傷で血管損傷も伴っていた。手術は朝方までかかったそう。ちなみに急患手術を深夜などに行ったドクターは、基本的に翌朝は来なくて良いことになっている(手術予定であっても、誰かが代わるように手筈を整える。代わりがいないような手術が翌朝組まれている場合、前日に当番になることは通常ない)。昨晩、当番だったDoldrer医師は予定手術に名前が挙がっていたが、カンファ終了後帰宅して行った。また、病院に泊まらなければならないという訳ではないのだが(必ずチームごとに当番がいる。Traumaはウンテン2人、オーベン1~2人が当番)、忙しい時には休める場所も確保されている。
7:45 HPRVのカンファが早めに終わったので、trauma teamのカンファに顔を出す。実は、昨日Hoentzsc教授にfellowshipの感想文を専用の台帳に書いておくように言われていたので、作って持っていったのだ(台帳には過去のfellow達の感想文が書かれており、世界各地から訪れている。多いのは中近東アジア特に湾岸諸国とインドから。日本からは過去2人しか見当たらなかった。みんなありきたりの感じだったので、趣向を凝らして色鉛筆で日本っぽいさし絵を入れて作ってみた)。また、短い期間だったが教授には色々とお世話になったので、日独友好バッチを進呈してあげた。
8:00 手術に行く前にPCで作業をする。今日HPRVチームは大きな手術の予定がない。細かな手術が詰まっていた。Schaller教授の母指CM関節形成術だけは少なくとも見ておこうと思っていた。手術進行表は病院内のPCから見ることができるので、今麻酔中とかが一目瞭然なのである。
手術タイムテーブル.jpg
9:00 手術室に向かう。今日はtrauma teamもそれ程手術が組まれていないらしく、SunderとRajaのいずれも手洗いしておらず、外から見学している。このインド人2人は背格好が良く似ている。Rajaは私と同様、結構デジカメで写真をバシバシおさめている。二人ともソニーのサイバーショットを使っている。日本製人気はここでも根強いようだ。
10:00 あまり見どころがない日もあるもので、そういう日は手持無沙汰になってしまう。まあ8週間くらいいると、手術室内で珍しげな場所もなくなっているわけだが、急患用手術室(septic区画の手術室とは階段でつながっている)の一角に患者用WCがあるのを始めて発見した。今までseptic区画にいてトイレに行きたくなった場合、いったん手術室の外に出てWCに行っていた。入る際はもう一度手術衣を着替えなければならず面倒だった。ここなら着替えずに用を足せる。しかしあと2日しか残っていなかった。
10:30 教授の母指CM関節形成術(Eping法)が始まった。他のドクター執刀で何度か見ていたが、教授はどうするのか興味があった。はじめに、手根管症候群の合併があるようで、手根管開放を行った(いわゆる小皮切に近い展開で特別な器具は用いていなかった。あっさりと終了し、母指CM関節背側に緩いS字皮切(3cm弱)を入れ展開。橈骨神経背側枝を避け(癒着が中等度みられた)、肥厚した関節包を切開し、関節内を展開、ここから大菱形骨を摘出していくわけであるが、ここが結構やりにくいと思われる。教授は第一中手骨基部にシャンツスクリューのようなピンを手回しでねじ込んで、それをjoy stickにして大菱形骨を摘出し易いよう工夫していた。教授に許可を取って手技は場面場面をデジカメでおさめておいた(残念ながら肩越しから無影灯が当たっている術野は反射して見えにくい)。大菱形骨摘出後にFCRが確認できるようになる。このhalf slipを用いて第1中手骨基部にsuspension plastyする。Tension balanceはどのように決めるのですか?と尋ねると、教授はこのように、と言って手関節を掌屈(最大ではない)させた位置に保持して見せてくれた。この感覚は慣れなのであろう。腱同士はinterlacing sutureではなく、普通に絡めて強固に縫合していた。骨孔には摘出した骨の一部を詰め込んでいた。
母指CM関節症.jpg母指CM関節形成術(Eping法).jpg
11:20 今日は、日本に荷物を送るための手筈を整えなければならない。秘書さんに尋ねて、どうすればできるだけ安く、簡単に(ここから)送ることができるか調べてもらう。その間に部屋に戻り、荷造りをした。
12:00 秘書さんのワゴン車を借りて、詰めた荷物を病院まで運ぶ(主に重い本などを送ることにした。1箱でおさまったので良かった)。秘書のTumaさんだけいたが、調整してくれたMonaさん(この方は英語が堪能)は休憩に入っていた。Tumaさんは彼女から伝言を受けてくれていて、病院から送れるように手配してくれたとのことだ。代金も日本からよりも安くてすみそうで良かった。
12:30 Casinoに朝食へ。今日はビーフシチューライスにした。味はちょっと甘すぎの感じ。
甘かったビーフシチューライス.jpg
13:00 荷物は夕方取りに来てくれるということになったので後回しにする。
13:30 手術室に再び向かう。Nusche先生が舟状骨骨折(近位型の遷延癒合例だが転位はほとんどない)に対して、海綿骨移植+背側からのHebert type screw固定を行っていた。ここに何故かtraumaにfellowに来ているハズのRajaがいる(良く考えたら私もHPRVに来ていたのに暇な時は勝手にtraumaの方も見に行っていた)。彼はインドにいたころはhandを主にしていたそうであるが、9年前にクウェートに移ってからはgeneral traumaになっているとのこと。今でもHandに興味はあるよう。また、彼は大胆にもNusche先生に向かって、こうした方がいいんじゃないですか?みたいに指示したりしている。なかなかものをハッキリ言う人間のようだ。ガイドピンが舟状骨内のfairwayにしっかりおさまっていることをimageで確認し固定した。
眉間に皺を寄せるNusche先生.jpg
14:10 trauma teamが急患手術をしていた。閉鎖性の下腿骨折(転位のない近位と骨幹部骨折)に対して、創外固定をしていた。こちらはだいたい終了し、これから下腿の筋膜切開を行うようだ。後で聞いてみると術前に圧測定はしていなかったらしい。臨床所見で診断できると言っていた。この症例は骨折があったため、外側の切開のみでlateralとanteriorを除圧するだけで十分だったようである。
下腿骨折に対する創外固定.jpgコンパートメント症候群に対する筋膜切開.jpg
14:40 今朝、更衣室でZwart先生に会った時に、今日の午後にTKA後の皮膚トラブルに対して腓腹筋皮弁をするけど良かったら見に来るか?と言われていた。先生は昔からここに勤めておられるのだが、HPRVができるまではflapなどは全部自分でしていたとのことで、今でも時々やっているのだそう。しかし症例を見に行くと、予想より軟部の状態が良かったため、洗浄・デブリを行い一期的に閉鎖するのみで終了となった。膝蓋腱の半分くらいは消失していたし、今後また何らかの追加手術は必要になるのかも知れない。
15:15 荷物担当者の所まで出向く。昼に梱包した荷物は25Kgをわずかにオーバーしていた。20Kgまでであれば病院から手続きが簡単に比較的安価に送ることができた。しかし、オーバーしてしまっているので、荷物の量を減らすか、ここに問い合わせてくれと言って、ホームページのアドレスを渡される。ちょっとガックリきてしまった。
15:35 夕方のカンファに参加する。今日の小手術の術後レントゲンや明日の手術予定を話し合っている。今は学生が何と5人もいる。最も長い、Gonser(愛称Philip)君は、PJという最終学年で年明けに最終試験が待っている。仕事しながら勉強もすることになるのでかなり生活はハードだとのこと。
16:00 早速、DHLのホームページから手続きを取ってみるが(現地版なので解読するのにかなり苦労する。途中タイムアウトになってもう一度やり直しさせられたり・・)、聞いていた値段より異常に高い。おかしいと思って、TELでも問い合わせてみるが、航空便で20Kgを超えるとかなり高くなるようだ。5Kg減らして、明日もう一度詰め直すことにするか。ちょっと残念だが。。。
17:30 またインド人2人がインターネットをさせてくれと言ってやってきた。ここは自分の部屋ではないけどと思いつつ、Rahmanianもいないし、あと2日だからいいかなと受け入れてあげた。彼らは、その後2人で街に繰り出して行った。
18:00 部屋に戻り衣類の整理を行った後、夕食を作る。何とか食材を帰るまでに減らしていかなければならない。
19:00 外はもう暗くなってしまった。こちらに来た当初は20:30でもまだ明るかったのだが、確実に日が短くなってしまっているのを感じる。

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